偉人 長崎 |
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☆長崎ゆかりの偉人☆長崎には、数多くの偉人と呼ばれる人が来ています。 維新志士の高杉晋作や近代日本のために奔走し、わが国初のカンパニー 『亀山社中』を設立した坂本竜馬、近藤長次郎など。 多くの事業に成功し功績も大きいグラバーや、原爆症の人々のために尽力した 永井隆など、挙げるときりがありません。 そんな偉人の幾人かを紹介します。 |
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| ☆グラバー☆ 正式名はトーマス・ブレーク・グラバーといいます。 海軍軍人を父に持つ5男として、スコットランドの港町 ブリッジ・オブ・ドーンで生まれました。 グラバーが長崎を訪れたのは21歳のとき、 安政6年(1859年)です。 当時、日本は『尊王攘夷派』の侍が活動していた 幕末の頃で、グラバーは凄いことに長崎に来た3年後には、 会社を設立し、茶、陶器など生活用品のみならず、 爆薬や武器、船舶まで何でも屋のように 商品を取り扱うほどになっていました。 そして、巨万の富を築いたグラバーは当時、 尊王攘夷派の伊藤博文の脱藩を援助したり、 坂本龍馬や高杉晋作などの尊王攘夷派の 維新志士を追ってから匿ったりしていました。 薩摩藩と共同出資して小菅修船場の建設、 さらに薩長同盟への手助け、佐賀藩との共同出資での 高島炭鉱の開発など様々な事業にも成功しました。 さらに大きな功績として、 現在の麒麟麦酒株式会社となる日本初のビール工場の 設立にも携わるなどしており、その素晴らしい功績に、 日本は明治41年(1908年)には、 外国人としてめずらしい『勲二等旭日賞』を受賞しています。 晩年、グラバーは故郷イギリスに帰ることもなく、 悠々自適の生活を送っていましたが、 明治44年(1912年)に享年73歳で亡くなられました。 現在は長崎市坂本町の『坂本国際墓地』に眠っています。 |
![]() グラバー |
| ☆永井 隆 医学博士☆ 島根県の医師の息子として明治41年(1908年)に誕生しました。 父の影響が大きく自らも医学を志し、現在の長崎大学医学部である旧制長崎医科大学にて勉強し、 卒業後、放射線物理療法の研究を重ねた結果、体に浴び続けたラジウム放射線の影響を受け 同大学の物理的療法科部長となる頃には、体は蝕まれ白血病に侵されていたそうです。 さらに、原爆に被爆し、急性原子病という病気にまでかかってしまいました。 病を患いながら命を注いだ研究資料も灰になり、そして最愛の妻も失い、そんな絶望感のなか、 現実に立ち向かい救護活動に力を尽くし、新しい原爆病の研究にも取り組んだそうです・・・すごいですね。 しかし、白血病、急性原始病という大病には勝つことができなかった博士は、 疎開先で原爆の難を逃れることができた二人の子供と共に生活し、わすが二畳の部屋『如己堂』にて、 執筆活動と原爆症の研究を行っていました。 そんな壮絶な闘病生活中に、如己堂から『長崎の鐘』や『この子を残して』などの名作が生まれ、 その収益の大半を原爆症に苦しむ人々のために使い、博士の呼び掛けで、現在の永井記念館と 併設されている『うちらの本箱』という私設図書館も設立しました。 昭和26年(1951年)享年43歳にて若すぎる一生に幕を閉じました。 |
![]() 26聖人 |
☆26聖人☆ 26聖人とは、慶長元年(1597年)、 当時の天下人であった豊臣秀吉が出したキリシタン禁止令 により京都や大阪の各地で捕えられた フランシスコ会宣教師の外国人宣教師6人と 日本人イエズス会修道者3名、 その信徒17人のことを言います。 ただ、当時は聖人としてではなく豊臣秀吉が 仏教を信仰していたことから異教徒? として西坂の丘にて処刑されました。 処刑の際、26聖人の一人、聖パウロ三木は、 十字架に架けられたまま4000人もの人々の前で 最後の説教を説いたといわれています。 彼らが聖人に列せられたのは、文久2年(1862年)に 当時のローマ法王・ピオ9世によって決められたようです。 |
| ☆坂本竜馬と亀山社中☆ 元治元年(1864年)坂本竜馬は初めて長崎を訪れました。 このとき竜馬は30歳。先生の勝海舟と熊本県から 船で島原へ渡り、長崎市内の福済寺にわらじを 脱いだとの記録があります。 それからの1年余りで、この長崎にわが国最初のカンパニー 『亀山社中』を設立しましたが、設立できた理由があります。 それは坂本竜馬が当時の長崎にしかなかった情報の多さ、 そして外国の文化を学び、取り入れようと努力したのです。 ですから、カンパニー『亀山社中』は従事していた身分などに 関係のない革新的な団体を作ることができました。 『亀山社中』の『亀山』とは地名であり、 『社中』は人の集まりという意味をもっています。 『亀山社中』の建物には現在は閉館されてしまいましたが、 3つの部屋があり、 その屋根裏には隠し部屋があったといわれています。 |
![]() 坂本竜馬の写真 |
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